桂小五郎(1833年~1877年)は、幕末の長州藩(山口県)に生まれ、明治維新のために奔走した志士です。のちに木戸孝允と称して、新しい国家のために尽力しました。後世にはその功績をたたえられ、西郷隆盛・大久保利通とならび、維新三傑と呼ばれています。
維新前夜の元治元年(1864年)7月19日、京都において長州藩と幕府側連合軍の戦い(禁門の変)が起こり、長州藩側が敗走します。当時32歳であった桂小五郎は、過激派をなだめつつ、武力衝突を回避する道をさぐっていたのですが、長州藩の重要人物として幕府から追われる立場になってしまいました。
市中が混乱するなか、対馬藩邸で知り合ったという出石(兵庫県出石町)出身の広戸甚助という人物を先導役として、京都を脱出します。船頭に変装した桂小五郎は、関所(久畑の関)を通り抜けて、無事に出石へと到着しました。
出石では、広戸甚助の弟である直蔵や、父の喜七、妹のすみ子など、広戸家が一丸となって潜伏の手助けをします。桂小五郎は、広戸家の血縁者や知人をたよりに、潜伏先を次々に変え、ときには出石を離れて養父市場村(兵庫県養父市)の西念寺へ移り、お寺の雑用係をよそおったこともあったようです。
但馬地方での潜伏中、城崎温泉には元治元年(1864年)9月と慶応元年(1865年)3月の2度訪れており、のちに夫人となる幾松(木戸松子)も滞在しています。当時は屋号を松本屋といい、奥の2階座敷(現在の「桂の間」の場所)で寝泊まりをしていました。滞在中、昼は射的や茶屋へ行き、夜は芸妓を呼んでお酒を楽しんだと伝わっていますが、一方で、近くの観音さまへ何度もお参りに行き、つねに小さな観音像をふところへ入れて大切にしていたという、信心深い一面もあったようです。また、京都では芸妓を生業としていた幾松も、城崎の湯女(ゆな)(外湯の雑用をする女性)から求められて舞を教えたそうです。
桂小五郎は再起をかけ、城崎滞在から一か月ののち、幾松とともに但馬を後にします。
〔敬称略〕
京都を出発し、広戸甚助の助けを得て但馬(兵庫県北部)を目指す。
但東町の関所(久畑の関)を通り、茶屋松屋に入る。
同夜のうちに出石町の角屋喜作の家へ移る。
幕府の目を逃れるため、城崎町の松本屋(現在の弊館)へ移る。
出石町の畳屋茂七の家へ移る。
養父市の西念寺へ移り、寺男(寺の雑用係)に姿をかえる。
滞在中は、近くに住む大塚屋新平の家で生活の助けを受ける。
ふたたび出石町の畳屋茂七の家へ移る。
出石町の広戸喜七の家へ移る。
出石町で荒物商(生活雑貨の店)を開く。
滞在中は、広戸すみ子の世話を受ける。
幾松が出石町に到着し、再開をはたす。
幾松と広戸すみ子をともなって城崎町の松本屋へ移る。
幾松と広戸すみ子をともなって出石町へ移る。
桂小五郎の依頼により、広戸直蔵が京都に向けて出発する。
幾松と広戸甚助をともない、長州(現在の山口県)に向けて旅立つ。
同行していた広戸甚助が、大阪で捕らえられる。
幾松と広戸直蔵をともなって大阪を出発するも、幕府の役人から尋問を受ける。
馬関(現在の山口県下関市)に到着する。
萩城下(現在の山口県萩市)に到着する。
当館では、桂小五郎をはじめとする志士の遺墨や史料を展示し、お客さまにご覧ただいております。激動の時代に生きた人びとの草莽の志に触れ、往時に思いをはせていただけましたら幸いでございます。
桂小五郎の潜伏した場所を後世まで記録するため、潜伏を先導した広戸甚助の甥正蔵氏と教育委員会の尽力により、昭和8年(1933)3月に建てられました。石碑の文字は、山口県萩市の松陰神社総代であった瀧口吉良氏によるものです。
城崎松本屋、桂小五郎の遺物。
桂小五郎の但馬潜伏について、ゆかりの手紙や写真をまじえて記録した本です。広戸甚助氏の甥、正蔵氏によって昭和初期に作られました。
楊洲周延という絵師によって、幕府の追跡をのがれる桂小五郎と、それを助ける幾松が描かれています。明治27年(1894)に作られました。
「君子尽忠則尽其心、小人尽忠則尽其力」
(君子忠を尽くせば則ち其の心を尽くし、小人忠を尽くせば則ち其の力を尽くす)
右:木戸家より
中:木戸忠太郎氏より
左:瀧口吉良氏より
桂小五郎、潜伏の部屋を中庭より写したもの。
桂小五郎が潜伏した当時の建物は大正14年(1925)の震災により焼失し、現在は往時を再現したお部屋となっております。上のモノクロ写真は、消失前に室内から撮影されたものです。
ロビーでは、幕末のころに読まれた本や桂小五郎に関する資料を展示しております。